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2018/09/19

Yuji Yamada

“帝王”山田裕仁の競輪哲学 Vol.32

“帝王”山田裕仁の競輪哲学 Vol.32

高知競輪場で行われたビッグレース、G2共同通信社杯は平原康多(埼玉87期)選手が冷静な判断で、中団確保からゴール前で外から強襲して優勝。決勝戦前は山崎賢人(長崎111期)選手の逃げ切り、もしくは番手を回ってきた選手が抜いて優勝という予想をしていました。追い込み選手がコースを探して突っ込んできたタイムは色々な要素が含まれているので、そんなに上がりタイムは気にしていません。ですが、自力選手が出したタイムは個人で作り出したタイムで、山崎選手は準決勝で1周=27秒台で走り抜けています。これは要するに、後方にいる選手はそれ以上のタイムを出さなければ前に追いつけないということになります。レースは“生き物”とはよく言われるもので、常にその実力を発揮できる訳ではありません。そして、決勝戦では山崎選手の目の前で村上義弘(京都73期)選手の落車もあり、準決勝のようなスピードの乗りではなかったのも事実です。これも経験値の差が出た部分だったのかなと。

今回は若手の台頭が顕著なシリーズに観えていましたが、世代交代はまだ早いとばかりに平原選手が百戦錬磨の落ち着き、意地と実力を示して終わったシリーズでしたね。実際に決勝戦は2着に清水裕友(山口105期)選手が入ったものの、3着には浅井康太(三重90期)選手で、SS級の2人がシッカリ確定板に載っているという結果は、最後は“格とキャリア”の差を見せつけたものでした。

初日の平原選手の走りを観ていた私は「あーっ、調子イマイチだなぁ」というのが率直な感想でした。しかし、平原選手は開催中に自転車のセッティングを見直すことで、優勝するまでに修正してきたのです。この修正能力もベテランの為せる技なのでしょう。
競輪選手は自転車好きが数多いですが、平原選手もその中の1人であります。そして、とにかく研究熱心。普段の会話からも「研究しているなぁ」と、感心することが多くあり、私より年下ではありますが、尊敬できる選手の1人です。
強い選手が人並み以上に練習していては、格下の選手が追いつくことは難しいでしょう。加えて、試行錯誤しながら研究もしているのですから、さらに追いつけなくなる。平原選手はますます進化を求めて強くなっていくに違いありません。

今開催はナショナルチームで活動している選手は不参加でしたけれども、今後の対戦が楽しみになる開催だったと思います。
山崎選手が前回のビッグレースであるG1オールスターに続いて、優勝戦へ進出(しかも3連勝で)してきました。2着に入った清水選手はビッグ初優出。太田竜馬(徳島109期)選手は決勝戦こそ失格という不本意な結果に終わってしまいましたが、同世代の選手にとっては励みになったでしょう。はい、競輪界の為にもドンドン若手選手たちには活躍していただきたいと、心底から期待しています。

最後に……自動番組に泣いた選手がいたのも事実ですが、自動番組を“売り”にした開催ならば最後まで自動番組という開催があってもいいと思います。ハッキリ差別化できることによって、各開催の特徴も出てくるはずですから。

【略歴】

山田 裕仁

山田 裕仁(やまだ・ゆうじ)

1968年6月18日生 岐阜県大垣市出身
1988年5月に向日町競輪場でプロデビュー
競輪学校の同期で東の横綱・神山雄一郎(栃木61期)、西の横綱・吉岡稔真(福岡65期・引退)らと輪界をリード
“帝王”のニックネームで一時代を築いた
2002、2003年の日本選手権競輪(ダービー)連覇などG1タイトルは6つ
KEIRINグランプリ連覇を含む史上最多タイ3度の優勝など通算優勝110回
通算獲得賞金は19億1,782万5,099円。
2002年に記録した年間最高賞金2億4,434万8,500円はいまだに破られていない
自転車競技でも2001年のワールドカップ第3戦(イタリア)で銀メダルを獲得するなどの実績を残した
2014年5月に引退して、現在は競輪評論家として活躍中
また、競走馬のオーナーとしても知られる

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