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2020/09/15

Yuji Yamada

“帝王”山田裕仁の競輪哲学 Vol.76

“帝王”山田裕仁の競輪哲学 Vol.76

昭和から平成。そして、令和へと、時代が流れていく中で競輪も大ギア化になり、競技規則も変わったことで、レースの流れが変わってきました。それに伴って、練習方法も変化してきたように思います。今は日本競輪選手養成所(かつては日本競輪学校)もナショナルチームの練習方法を参考に『量より質』という練習になっているのではないでしょうか。
私が在校していた頃は泥臭い練習である『乗り込み』が、まず基本。競輪学校時代の在校成績が85位(当時は一期が約100人)であった私__生活態度は別として、当然、目立たない生徒でありました。そんな私でしたから、学校時代は可能な限り早朝の自主トレーニングに出掛けていました。当時は競輪学校の門を出て、トレーニングに出掛ける時は自分の生徒番号の所にマグネットチップを貼ってから出掛ける決まりになっていたので、誰が練習に出掛けているのかは一目で分かりました。ほぼ毎日、必ず貼ってあった番号は『11番』です。そう、同期No.1の神山雄一郎(栃木61期)選手!当時は神山雄一郎君(笑)ですが、毎日、そのチップを見ながら私が思ったのは「自分のような素質のない弱い人間が自分より強い人間と同じ練習をして勝てる訳がない」ということ。卒業後もその気持ちを忘れないように練習することにしました。

学校卒業後の私の練習スケジュールを振り返ると、朝は5時頃から出勤前の父親が練習に付き合ってくれて、車誘導を約2時間。帰宅後は朝食を摂り、8時過ぎには先輩たちと街道練習へいき、13時くらいに帰宅。昼食と昼寝を挟んで、15時からバンク練習、もしくはもう1度、街道練習をして、19時前後に帰宅するという毎日。走行距離にして多い日は200㎞ぐらい乗っていました。雨が降った日はローラー練習とウエイトトレーニング。記念を優勝するまではこんな感じの毎日でした。

記念を優勝してからは調子に乗ってしまったこともあり、早朝トレーニングは止め、午前の街道練習と、午後はバンク練習かウエイト、もしくはウエイトをしてからバンク練習というパターンに変えていきました。
量を重視して、鍛えられた身体は記念優勝を何度かできるレベルまでには達しました。でも、その頃の神山選手は特別競輪でも活躍していたのに、トレーナーまでつけて、マンツーマンでの練習も開始。素質のない私が今のままでは、ますます差が開くことは間違いなく、私もトレーナーを探して、自腹で雇って、練習するようになりました。しかもウエイトと自転車、別々に2人も雇って、トレーニングを始めたのです。その頃から投資が好きだったのか!?自己投資にもかなりのお金を使ったものです。

私が3回もKEIRINグランプリで勝つことができたのは自分の素質ではありません。神山選手のような目標となる選手に恵まれたこと。そして、練習に付き合ってくれたトレーナーや選手仲間。さらにはハードな練習に耐えるだけの立派な身体に産んでくれた両親、子供の学校行事も参加せずに練習中心の生活で振り回された家族の理解と協力など、多くの方々の支えがあったから。
こんな私ですからセンスのあるタイプよりも叩き上げの“雑草魂”という言葉が似合う選手が好きなのは確かです。 

9月18日からは伊東温泉競輪場で“若手の登竜門”とも呼ばれる第36回G2共同通信社杯が開催されます。先月の名古屋G1オールスター競輪の内容からは脇本雄太(福井94期)選手のスピードが頭一つ抜けているのは確かです。333mのバンクだけに先行されると、他の選手は厳しい展開になるかも知れませんが、短走路で9車立てということもあり、逆に展開を巧く作ることができれば脇本選手を苦しめることも可能でしょう。
個人的には近況の調子、地元・南関東地区の開催ということもあり、郡司浩平(神奈川99期)選手に注目しています。

【略歴】

山田 裕仁

山田 裕仁(やまだ・ゆうじ)

1968年6月18日生 岐阜県大垣市出身
1988年5月に向日町競輪場でプロデビュー
競輪学校の同期で東の横綱・神山雄一郎(栃木61期)、西の横綱・吉岡稔真(福岡65期・引退)らと輪界をリード
“帝王”のニックネームで一時代を築いた
2002、2003年の日本選手権競輪(ダービー)連覇などG1タイトルは6つ
KEIRINグランプリ連覇を含む史上最多タイ3度の優勝など通算優勝110回
通算獲得賞金は19億1,782万5,099円。
2018年末、三谷竜生(奈良101期)に抜かれるまでは年間獲得最高賞金額=2億4,434万8,500円の記録を持っていた
自転車競技でも2001年のワールドカップ第3戦(イタリア)で銀メダルを獲得するなどの実績を残した
2014年5月に引退して、現在は競輪評論家として活躍中
また、競走馬のオーナーとしても知られる

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