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2017/11/29

Junko Shitara

心に残るベストショット Vol.6

心に残るベストショット Vol.6

競輪に携わって35年。
数々の名勝負、名選手を間近に見てこられた幸せを。一線を離れた今だからこそ折に触れて思い起こします。今回もそんな徒然を語りましょう。

今年のGPは平塚の湘南バンク。そこで平塚競輪場でたくさんある思い出から一つ。時は1994年(平成6年)3月、静岡競輪場では駿府ダービーと銘打って第47回日本選手権が開かれていました。連日1万人を超すファンが詰めかけ、売り上げも右肩上がりで過去最高の430億円を上回る記録を達成した開催でもあったのです。
そんな華やかなダービー2日目をチョット離れて、私が向かった平塚競輪場はこの日を最後に、現役引退を決めた“逃げの神様”こと高原永伍(神奈川13期・引退)のラストランの日でした。
あいにく空模様は篠突く雨で、寒さに思わず肩が震えるようでした。でも、詰めかけた永伍ファンの熱気で、平塚競輪場は独特の雰囲気に包まれていたのです。
駿府ダービーの結果も気になるところでしたが、正直なところ高原さんを見送るファンを見に行ったのが本音です。間近に見る永伍ファンとはどのようなお客様なのだろうか?どんな方たちが競輪創成期を支え愛して下さったのか?それを見届けることで当時の雰囲気を少しでも味わえればと、考えていたからであります。

取材は苦手という高原さんとお話しができたのは、全盛期を迎えていた滝澤正光さん(千葉43期・引退)の人となりの話しを頂戴しようと、お願いした時のことでした。“逃げの神様”とまで呼ばれた往年の名選手のインタビューで緊張する私に「やぁ~」と、気さくに声をかけてくれて始まった滝澤評は「礼儀正しく、人柄も申し分なく、これはご両親の教えが素晴らしいからだ。こういう選手が人一倍の努力をするのだから強いのも頷ける」と、競輪選手ならずとも、人として大切なことが根本にあることを教えられました。今でもこの一言は心に残る重みのある言葉となっています。

さて、ラストランとなった平塚競輪場は普通開催。普段であれば金網超しに選手に声援を送る光景はなかなか見られませんが、この日は数多くの永伍ファンが金網に張りつき、何かを必死に堪える表情で雨に濡れながらバンクを見つめていました。
永伍コールが渦巻く中、生涯先行を貫いた高原さんらしくラストランも逃げ切り、生涯成績は2679レース、941勝という記録。こうして鉄人の現役生活の幕は降ろされました。デビュー35年目、54歳でした。
高原永伍さんは必ず先頭に躍り出て、そこからレースを作るスタイルを貫き通したことで人気を博し、昭和30年代の競輪黄金期を支え走り抜けた“記録”にも“記憶”にも残るスター選手でした。
まさに怪物ともいえる伝説の話しは昭和38年競輪祭新鋭王(新人王)、優勝者は後節の競輪王戦にも出場資格があり、この開催で高原さんは新鋭王と競輪王の栄冠を手にしたダブル優勝、史上唯一の選手です。
雨の平塚のバンクではレースが終わっても永伍コールは止まず、女性ファンが花束を贈り、その余韻はいつまでも続きました。ファンそれぞれが過ごした青春時代を高原さんの雄姿に投影していたのでしょう。その忘れがたい惜別の思いが私にも伝わり目頭が熱くなるほどでした。

この日、高原永伍・単勝式車券の1番車は当たり車券にも拘わらず、払い戻しに並んだファンが殆ど居なかったと聞きました。皆さん記念として持ち帰ったようです。

競輪とはファンと選手の間に単に賭けというシビアな世界だけではなく、人間対人間の絆で結ばれるという人間臭さや熱さがあるところに得も言われぬ魅力を感じる人が多いと思います。だから高原永伍さんのような名選手を忘れがたく感じ、涙する人もいて、このようなファンの気持ちが競輪を支えてきたのでしょう。

一方の駿府ダービーでは、小橋正義選手(新潟59期・引退)が井上茂徳選手(佐賀41期・引退)を破って優勝。新たなる鬼脚の誕生に沸きました。

高原永伍さんのラストランは確実に時代が変わりゆく瞬間、その狭間で見せたセピアカラーで映し出されたワンシーンでした。

【略歴】

設楽淳子(したらじゅん子)イベント・映像プロデューサー

東京都出身

フリーランスのアナウンサーとして競輪に関わり始めて35年
世界選手権の取材も含めて、
競輪界のあらゆるシーンを見続けて来た
自称「競輪界のお局様」
好きなタイプは「一気の捲り」
でも、職人技の「追い込み」にもしびれる浮気者である
要は競輪とケイリンをキーワードにアンテナ全開!

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