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競輪

2017/06/25

Kimi Kitamura

グラドルからGIRL’S KEIRINへ/日野未来

グラドルからGIRL’S KEIRINへ/日野未来

これが私の仕事だ!

今年5月、日本競輪学校の女子114回生(ガールズ7回生)にグラビアアイドル出身者が入学すると聞き付けて、早速、取材へ向かった。入学生の集合写真撮影でグラドル時代の写真を手に彼女を探すも「あれっ……どこだ!?」私以外にも戸惑う報道陣たち。
「もしかして、あの子かな?」と、競輪学校の広報担当者に確認して、やっと日野未来生徒(タレント時代の芸名は中原未來)を認識できた。
というのも、短く切り揃えた髪の毛に、化粧厳禁の競輪学校ではもちろんスッピン。トレーニングで20kg近く増量した身体。そこに立っているのはもう“Gカップ・グラビアアイドル”ではなかった。
「グラビアをやっていたのは過去の私。今は競輪選手を目指していますから」
カメラレンズを向けても、恥ずかしがる気配は微塵(みじん)もない。

日野のタレント活動は2010年、福岡市を拠点とする女性アイドルグループの初代キャプテンからスタート。事務所から声がかかり東京に拠点を移してのソロ活動となった。
「幼い頃から芸能界に憧れていて、絶対に芸能界の仕事に就くんだと思っていました」
念願の職業に就けた日野がなぜガールズケイリンに?
グラドル時代の苦しい時期は、ギャンブルで食べていたという程の根っからのギャンブル好き。唯一、観たことがなかった“競輪”に初めて触れ、人間関係の大切さ、戦法や脚質なども考えて予想する奥深さや、激しくぶつかり合う男子の競輪に惚れたのだという。
「賭けるのも、観るのも楽しくて。その日から興味を持って、毎日、観るようになりました」

(*写真は本人のブログ「ギャンブル物語」より、掲載は本人から了承を得ております)

ガールズケイリンに出会ったのはタレントとしての仕事で訪れた2014年の松戸競輪場。
「ナマで観て、こんな仕事があるんだ!これが私の仕事だ!芸能界で生きていくことしか頭になかった自分がこんなに転職したいって、思ったのは初めてだった。自分の気持ちを抑え切れなくて、絶対に目指すという気持ちでいっぱいでした」
所属事務所と話し合い、ガールズケイリンを目指すため2016年3月末に芸能活動を終えることを決めた。
「競輪選手目指すことに対して、売名だとか、批判は覚悟していました。でも、元タレントだから中途半端だとか甘いとか思われるのは本当に嫌で。注目を浴びる分、自分をもっと追い込もうという気持ちになりました」

怪物と呼ばれた滝澤正光氏(現・競輪学校校長)のように、他競技(滝澤氏は高校時代までバレーボールに専念)からの転向で自転車競技経験ゼロという生徒は珍しくないが、日野の場合はスポーツ経験自体がほぼゼロ。さらにはアイドル活動のため、自分の意思で高校を中退しているので募集要項である“高卒資格保持者”の条件を満たしていない。
高等学校卒業程度認定試験を受けて8つの教科に合格をしなければスタートラインにも立てないのだ。
「勉強が大嫌いで、勉強の時間がもう一番の地獄でした(苦笑)。学力は中学生で止まったままだったので、全体的な底上げが必要だったし、最初は何年かかるかも想像が付かなかったくらいです」
日野は早朝から深夜までの猛勉強で高卒認定の試験に合格し、受験資格を手に入れた。
だが、競輪学校の技能試験に受かるためには勉強と並行して自転車のトレーニングもしなければならない。
「奈良という土地も競輪場も大好きで。家族も友達もいない土地で挑戦をしたいと思っていたので」
かつて仕事で訪れた奈良競輪場のバンクが印象に残っていたこともあり、この地での挑戦を決意した。競輪場関係者に直談判し、紹介された競輪選手の佐藤成人(奈良71期)に師事。選手会奈良支部の協力もあって、恵まれた練習環境でメキメキと力を付けた。

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