エッセイ「競輪場の在る街」Vol.2〜伊東

ホテルの窓から見える古い民家は、確かにどこにでもある古い民家に違いはなかったが、それすら旅情の足しにしてしまう魅力が、伊東にはある。
伊東といえば海沿いの温泉というイメージなのに、部屋の窓は山側に向いており、夜が深まると山の稜線と紺碧の空の境がぼんやりと滲み、視線を下に移すと、まばらな光がちらちらとしている。昼間、ホテルに着いてすぐに見た古い民家にも、数点、民家同様に古く黄ばんだ灯りが灯っている。そこに見た生活感と、自分が今、身を置いている旅の非日常性がないまぜになり、「その民家に住んでいるのは、なぜ自分でなかったのか」という錯覚さえ覚えさせる、伊東とはそんな街であった。
翌日、ホテルをチェックアウトしてから、伊東の商店街を独り歩きする。シーズンオフだからか、店は開いていても、人は少ない。ここでは私はよそ者であって馴染める人はいないが、アーケードから外れた路地に入ったところにあるスナックの看板の隣にちょこんと座っていた黒猫は、よそ者の私を見ても逃げもせず、姿勢良くじっとこちらを見ている。数秒間の対峙を経て、伊東の黒猫に受け入れられた感じを得た私は、十分に伊東の街にも馴染んだ気になってしまった。気を良くしたせいか、浮かれた足取りで街を更に行く。たどり着いたのは、プラモデル屋。客のいない店内を我が物顔で物色する。オートバイ、客船、ピストル、日本の城、戦車、そんなプラモデルの箱が積まれる中、あるプラモデルが目に止まった。私が人生で最初に買った車である。知らないメーカーのもので、蓋を開けてみると、タミヤや京商なんかと比べるとパーツの数も、エンジンの造形も単純で、物足りなさを感じた。しかし思い出したのは、その車で夜通し走って行った朝の海の景色。あの頃の自由さを思い出し、手に持ったまだ組み立てられてもいないプラモデルの車が走り出す。
ふと、その自由と引き換えに手に入れたのが旅情なのではないかと思う。旅情が非日常の産物なのだとしたら、自由は、毎日が非日常の可能性を帯びていて、そんな簡単に手の入るものを、我々は旅情とは呼ばない。
そんなふうに、ここでも旅情と“何か”がないまぜになって、無性に海を見たくなる。海ならここにはたくさんある。歩けばすぐだ。よし行こう、旅情の境界線まで。あの日、一緒に海を見に行った車を、今度はビニール袋にぶら下げて。
Text & Photo/Go Otani
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